2015/04/16

自分が本当にしたいこと

自分が本当にしたいことを、じっくり自分に問い直すのは、
人のためでもあると思う。

今、自分がしていること、仕事やら何かは、
すごくしたいか、ちょっとしてみたいか、程度の差はあるにしても、
自分がしてもいいかな、と思って選んだことだと思う。

たとえば、あ、違うな、と思っても続けるとすると、
本当にこれが、自分のしたいことなのか、という感覚がにぶる気がする。
もし、働いている人10人が、みんな、あ、違うなと思いながら働いたとしたら。
100人がそうだったら。
10000人がそうだったら。

以前に、怖い実験の話を聞いた。
うる覚えだが、こんなような話。

まったく関係のない人2人がいる。
一人は電気椅子に座る係。
一人はモニターで電気椅子に座った人を見ながら、電気を入れる係。
ただ、指示された通りに2人は役割を演じる。
必ず言われた通りの役割をしなければならない、という設定。

電気を入れる係の人は、スイッチを定期的に入れなければならない。
最初は、座った人が痛がるので、躊躇しながら恐る恐る押す。
でも、数日経つと、だんだん慣れて、
モニターで痛がっている人を見ても、ためらいなく押すようになる。
1週間もすると、スイッチを押すのを楽しんでいるかのように見える。
電気椅子に座っている人が危ないということで、1週間で実験は中止になった。

実験の後で、インタビューをしていた。
スイッチを入れる役の人は、最初は怖かったけど、
だんだん楽しくなって、ためらいもなくなった、と話していた。
椅子に座った人は、もう頼まれてもしたくない、と言っていた。

これは実験で「もうやめましょう」という人が何人かいた。

もし、実験に参加している人が1000人ずついて、
やめましょう、と言う人が一人だったら、
実験を中止にできたのかな、と思うと、ぞっとした。

でも現実には、どこの国でも、過去にも、
今も、同じようなことが起こっている。
きっと、起こっている最中には、スイッチを押していた人みたいに、
気がつきにくいんだと思う。
でも、誰かがどこかの時点で、あれ?と思って、
大勢の人が、あれ?と思うようになると、変わるのかもしれない。


ちょっとおかしいな、という感覚は、とても大切だと思う。

「ちょっとおかしいと思うんです」と言える環境ができるかどうかは、
言う人に勇気がある、ということでもなく、
集まっている人みんなが「自分が本当にしたいこと」を、じっくり考えたり、
それを話できたり、行動できたりする時なのかも、と思う。

叔母は「病気」だと名づけられ40年入院し、老人ホームで亡くなった。
もし、「自分が本当にしたいこと」を、じっくり考える人たちの中にいたら、
一生病気だった、と言われることはなかったかもしれないし、
本当に自分のしたいことを、じっくり考えられたかもしれない。

「ちょっとおかしい」という感覚を磨くのと、
おもしろいな、と感じて思わず戯れてみる」という感じ、
通じるものがあるように思う。

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